うたた寝ねね

趣味とか技術とか憂鬱とか。

僕はいったいなにを、どうしたいのか?

数ヶ月前に書いたまま放置していた下書きに追記して公開します。自らの行動を省み頭の中身を整理するためのエントリで、特に深い意味はありません。

なにかを成し遂げたいと思った場合、その目標や最終的な目的はふたつに分けられるように感じます。ひとつは自分自身のため、もうひとつは他者のため。いずれにせよどんなことを目標にするにしても、初期衝動としては前向きなものが多いことかと思います。(あいつ殺す、とかそういうものでなければ……)

自分自身のため、たとえば試験で90点以上取るとか毎日6時間は寝るとか筋トレするとか、自分の中で完結する目標ならば問題ないことでしょう。それはとても健全です。
しかしもっと極端にいえば地位とか名声とかお金とかそういうものも自分自身のためでしょう。自らの目的のために他者を蹴落とすような人だっているでしょうが、それはそもそも初期衝動として不純なものだと思うのであまり触れないことにします。

そしてもうひとつの行動原理、他者のため。これは一見すると実に自己犠牲的で道徳的な思想のように感じます。ボランティア精神もこれに該当するかと思います。
しかし「誰かのために」とかそういう理由付けや正当化というのは利他的のようでいて、それは誰かのためにという仮面を被った自己正当化のように思えて、最近は自分自身のそのような衝動を省みて葛藤することがよくあります。もちろんまったく自分への見返りを求めないような博愛精神の持ち主はそういないでしょうから、多かれ少なかれ打算的な部分はあるとは思いますが(誤解なきように付け加えるなら、ボランティアに対する否定ではないです)。

僕が怖く感じるのは、目的が他者を巻き込んで大義名分化してしまうことです。行動理由が内ではなく外にある場合、つまり先に書いたように「誰か(特定個人であれ不当定多数であれ)のために」はまさにそうです。あるいは自らの正義を外へ向かって行使しようとすることもそうかもしれません。(たとえば戦争だって宗教的な思想を大義にして振り回し、恨みや憎しみの対象はたいていの場合自分以外です)

原動力としては誰かに掲げた目標のほうが強いというのも今までの経験で感じてきました。達成するために行動する自分自身に気持ちよく酔えるのも誰かのために動けばこそです。

ですがそれを誇りに思って動いていられるときはいいのですが、たとえば心が折れてしまったときに、その苦労やつらさの原因として目的であるはずの「誰か」を知らず知らずに疎ましく思ってしまったり、八つ当たりの対象にしてしまうことが絶対にないと言い切れるでしょうか。僕はそんな自信が持てないです。現に駄目駄目です、迷惑かけっぱなし。これは自戒ですが、重要なのは目的を達成するのは義務ではないこと、行動そのものを目的にして本質を見失ってはいけないということです。誰かのことを考えてこその行動そのものが擦れ違うのはとても歯痒く申し訳なくなります。だったら最初から自分のためだと思って行動する方が誰かに対して苦しい感情を抱かずに済むかもしれません、利己的の結果に利他があるとでも言えばいいでしょうか。

きっとこれは自覚していないだけで、タチの悪い依存の形なのではないかと思います。自分の正義(というのは大袈裟だとしても)と同じものを相手に求めたり、自分がこれだけ頑張っているんだからと相手にも同じ行動を求めたり。そういう考えってとても危ういと常々思い自戒する毎日です。ちっとも正すことができず心苦しい。

さあいよいよ言わんとしていることが自分でも分からなくなってきました。

ひとつのことに固執すること、ひとつの考えに傾倒することのアンバランスさは誰でも分かると思いますが、そうならないようにニュートラルな考え方でいようと苦心するその姿勢そのものがひとつの傾倒ではないかとも思えて、鈍い頭痛に苛まれながらも濁り霞んだ世界を模索しながら生きる毎日です。